大きなビジョン

黎を自転車で送る。やっぱり泣いてしまう。僕が暇ならいいんだけどな。

強いヴィジョンを持つということは、基本的に弁証法で切磋琢磨するモデルである。議論を繰り返して侃侃諤諤と戦わせれば、どんどん良くなるというスタンス。

最初はそんなの暑苦しいというレベルでしか考えていなかったのだけど、なんで問題なのか、それによってなんで時代遅れになったかがわかった。

ようするに、これは結局古典的には進化論に基づく考え方で、ネオダーウィニズムじゃないよって。国家レベルで大冗談なことを言って波風を立てると、地球が滅んじゃうレベルまで技術が進歩したこと。これは納得。それが各種技術の民主化によって個人レベルでそれが(核)とはいかなかくても、影響を与えることができるようになったことに所以するらしい。

最も気を使ってるのはバイオの文脈だろうけど、ディープラーニングだって、都市計画だってそうゆうことを考えないといけない。試行錯誤ベースでやると、一つのトライでその環境をがらっと変えちゃう可能性があるから、言い方をかえると、自分が他の恐竜を絶滅追い込む事が出来るほどの隕石を作れるようになって、それをどうすればいいのかわからない状況を「技術が社会」を通り越したと言ってるんだと思う。倫理感として下手な事を言っちゃいけないという規範ができたのではないかと思う。

逆に言えば、そうゆう大きなビジョンを今更掲げてる人の説得力のなさは、根本的に自分の分野がそこまで社会影響を与えないですよと自分から表明しているような感じをなんとなく感覚的に感じてたんだ。